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東京地方裁判所 平成3年(ヨ)2273号 決定 1991年11月08日

債権者

猪野勝子

右訴訟代理人弁護士

鳥越溥

債務者

株式会社シーズン

右代表者代表取締役

黒瀧紀代光

右訴訟代理人弁護士

春日寛

久恒三平

主文

一  債務者は、債権者に対し、平成三年八月一六日から第一審判決言渡まで、毎月二五日限り、月額金三五万円を仮に支払え。

二  申請費用は債務者の負担とする。

理由

一  当事者間に争いのない事実及び本件疎明資料並びに審尋の全趣旨によれば、次の事実が一応認められる。

1  債務者は、焼肉レストランを経営する株式会社であり、従業員約四〇名を有し、主たる営業として焼肉レストラン「バリバリ青山店」を経営している。

債務者は、平成三年四月二日付けの読売新聞に「女性マネージャー」等の募集広告を出し、債権者は、これに応募した一二、三名の中の一人であり、債務者人事担当責任者である五十嵐文子人事部長による面接を経て、平成三年四月一五日から、債務者に雇用され、右店舗における接客業務に携わっていた。

債権者の賃金は、月額三五万円であり、前月一六日から同月一五日までの分を当月二五日限り支払うとの定めであった。

2  右店舗には、ビルの九階に個室及び一般席が、一〇階に一般席がそれぞれ設置され、九階には、接客担当の女性として、鈴川照子を責任者とし、小林照子を副責任者とする従業員が配置されており、全体の管理は岩田広副店長(店長代行)が行っている。

3  債務者就業規則一三条によると、採用後三か月間は試用期間であるが、債権者の退職を巡る債権者債務者間の紛争が生じたのは、右試用期間を経過した後である同年七月二二日以降であった。

4  同年七月二二日、五十嵐人事部長が右店舗を訪れ、岩田副店長とともに個室で債権者に対して退職の勧奨を行い、また、同月二四日にも、五十嵐人事部長と債権者との間で退職についての話合いが行われた。

5  債務者が債権者に退職を勧奨した実質的理由は、債権者と鈴川との折り合いが悪いという点にあり、右退職勧奨までの間に、債権者と鈴川との間のささいなことを切っ掛けとする争論に関して、五十嵐人事部長や岩田副店長から、鈴川、小林、債権者の三名に対し、「従業員間の和が保てないようだと営業に支障を及ぼし、特に喧嘩争論に至れば業務の中心である接客態度も自ずと不快なものとなりがちである。今後も続くようだと三人ともやめてもらう。」旨注意したこともあったが、中々改まらなかったという経過がある。

二  債務者は、右退職勧奨によって債権者が自ら退職することを認め、ここに任意退職の合意が成立したと主張し、債権者はこれを争う。

前掲疎明関係によると、五十嵐人事部長らから債権者に対する退職勧奨が行われた状況については、五十嵐人事部長らが債権者に対して退職を勧め、債権者がこれに反発するという状況が続いた後、岩田副店長に電話があって同副店長が右個室を出たことが一応認められるが、その後の状況については双方の側の陳述は一見すると食い違っている。

すなわち、債務者側の主張に副う疎明としては、五十嵐人事部長の陳述(<証拠略>)があり、これによると、七月二二日に退職を勧めた際、同部長は、債権者を傷つけないように話し合いたいという考えで店に向かい、まず、「店に合わないから。」という理由で債権者を説得したが、債権者は、「私は良いサービスをしているつもりだ。」と強く反発し、同部長は、「解雇ですか。解雇ですね。」と言い募る債権者に対して「解雇ではないですよ。」と話したというのであり、このように反発を続ける債権者に対し、同部長らは、「店の客からの苦情もあるし。」などと終始穏やかに退職を勧めたというのであるが、最後に債権者が「今日の今日では仕事も探せない。七月三一日までお願い。」と発言し、自ら退職することを認めたというのであり、また、同月二四日には退職の手続をするために店に赴いて話し合ったが、その際債権者が、「二〇日の通知なので八月二〇日でお願いします。」と述べたというのである。しかし、他方、債権者の陳述(<証拠略>)によれば、七月二二日の話の際には、「納得がいかないので出るところに出ます。」と言うなどして話が終わったというのであり、また、七月二四日の話の際にも、解雇予告期間の知識を前提として、「私は辞めません。少なくとも八月二〇日までは辞めさせることはできないでしょう。」と言ったというのである。右の各陳述は、一見、相互に矛盾するかのようであり、それ自体ではいずれを採用すべきか決め手はない。

そこで検討するに、本件においては債権者が債務者からの退職勧慫に先立って自ら積極的に債務者を退職しようとする意思を有していたことを一応認めるに足りる疎明はない。したがって、問題は、債務者からの退職勧慫によって、債権者が退職に応ずる意思となり、これに応諾する意思表示をしたといえるかどうかの点にある。債権者の応諾の意思表示をしたと債務者が主張する前後の時期における債権者の態度をみると、前掲疎明関係によれば、債権者は、七月二四日には、五十嵐人事部長との話合いに先立って、三田労働基準監督署に電話で相談して、予告期間を置かない即日解雇は労働基準法違反となる旨聞き、三〇日間の解雇予告期間の知識を前提として五十嵐人事部長との話合いに臨んでいること、右話合いの直ぐ後である同月二六日には港区役所の人権擁護委員会に相談に行って法律扶助協会を紹介され、同月三〇日には同協会に赴いて説明の上法律扶助の申請をし、同年八月五日扶助決定を受け、同月七日には本件訴訟代理人弁護士からの連絡を受け、同月一三日には同弁護士事務所に行って本件仮処分申請手続の準備を開始するというように、債務者からの退職の勧奨を受けて以来、債務者を辞めたくないという明確な態度での行動を継続していること、この間、岩田副店長から退職届を提出するかどうか尋ねられて断っていることが一応認められる。このような債権者の態度は、債権者が債務者からの退職勧奨に任意に応ずることとはあい反するものであって、債権者が当時退職の意思を持っていなかったことを裏付けるものとみるのが自然である。特に七月二四日の出勤前に前記労働基準監督署に電話で相談していたことからすると、その直後に任意退職を前提として退職日を約束するということは極めて不自然であって、当時債権者が特に虚偽を述べて五十嵐人事部長を欺罔しようとしたとでも解しない限り合理的に理解し得ないことであり、本件疎明中に債権者にそのような悪意のあったことを疑わせるようなものはなく、本件審尋に際しての債権者の供述状況からみても、債権者が当時特に虚言を弄したものとは考えられない。

また、七月二二日の経過については、その場での債務者側の指摘と債権者の弁明との間には大きな対立点があり、債権者が退職の勧奨に反発を続けていたことは明らかであって、それにもかかわらず、債権者が、特段の決め手になるような同人事部長からの発言もないのに、極めて短時間の間に突然翻意して素直に自主退職を申し出るに至るというのは些か考えにくい面がある。そして、五十嵐人事部長の前記陳述によると、七月二二日には、同部長は、突然の退職勧告に動揺して興奮気味の債権者を余り刺激しないように努めていたことが窺われ、また、同月二四日には、同部長は、退職手続をするために店に赴きながら、債権者に退職届けを書かせるまでには至らなかったことが一応認められる。

以上のような事情をもとにして、同部長の言わんとするところを検討すると、その陳述は、債権者の発言の趣旨を退職を認めた上でのものと受け取ったというにすぎないと解する余地が十分ある内容であり、同部長の陳述するところの債権者の具体的発言内容は、債権者を退職させたいとする債務者側の意向を撤回してほしいと考える債権者の発言の一端を捉えたものと解する余地があるといわざるを得ない。してみれば、債権者が、債務者から辞めさせられるという意識の下になした発言の中に、仮に退職を前提とするかのような部分があったとしても、債権者が確定的に退職を認め、その意思を表示したものとまではいえないものと解される。

以上のとおりであるから、債務者の主張するように、債権者が退職勧奨によって自ら退職することを認め、そこに任意退職の合意が成立したと一応認めるには足りないものというべきである。

ところで、五十嵐人事部長の陳述に表れているように、債務者としては、債権者の意思いかんにかかわらず、債権者を退職させようとまで考えていたものではないというのであるが、逆に、債権者の方が解雇の趣旨で退職を求められたと述べているので、念のため付言するに、仮に、右退職勧奨の中に債権者に対する解雇の意思表示が含まれていたと解したとしても、債務者が債権者に対して退職を勧慫した際に理由とした諸点は解雇を相当とするほどの特段の不都合な言動や手落ちであるとまではいえず、解雇の事由として必ずしも十分なものとはいえない。このことは、債権者の弁明に加えて、債権者の執務態度を直接知っていると考えられる他の従業員や接客指導者らの陳述書の内容が、「感情の縺れから先輩後輩の立場を忘れて衝突したものと思う」、「先輩の指導性にも問題があろうが、債権者の協調性のなさが問題と感じた」、「自己主張が強く、個性的という言い方もできるが、複数の者と仕事をしていくに当たって必要な協調性と同化力に若干欠けていると思った」、「鈴川との言葉荒いやりとりが不愉快だった」、「勝ち気な性格が見受けられる」といったものになっていることを併せ考えると明らかであり、一方的に債権者に非があったと決め付けるには十分でなく、また、債務者の指摘するその他の点、すなわち接客上の問題点なるものには解雇事由と認め得るだけの十分な根拠がない。債権者と鈴川との折り合いの悪さの原因をみるに、前掲疎明関係によると、一方、債権者の側には、勝ち気な性格でもあり、また、自営を含めて接客業の経験も長く、料亭の仲居の経験もあることなどから、店の営業に資するものと思って種々進言するなどしたのに、採用早々出過ぎた言動をとるとして鈴川からむげに退けられるなどしたため、鈴川への不満があって反発するなどしたことに一因があると一応認められるものの、他方、鈴川にも、店の九階の責任者であり、また、債権者より先任、かつ年配であったことから、当然債権者が譲るべきものと一概に考えて行動していた面が窺われ、一方的に債権者のみを責めることは相当でない。債権者と鈴川との衝突は、多分に感情的な問題にすぎなかったものと解すべく、これを上司の業務命令に対する違反とか上司に対する反抗といったものと目するに足りる疎明はなく、債権者はこのような面からの解雇事由も認められない。

三  仮処分の必要性について検討するに、前掲疎明関係によると、債権者は大阪市から転居したばかりでさしたる蓄えもなく、現住所の家賃月額一〇万円を支払いながら、一七歳の長男を扶養して債務者からの賃金のみによって生計を立てていることが一応認められ、未払の賃金を含めて各期の賃金の仮払を命ずる必要が認められる。

(裁判官 松本光一郎)

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